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経済思想 課題レポート

「現代日本社会における階級とブランドについて」

 

佐々木 育子

経済学科3年 17010069

2003.7.

 

 

 

はじめに

このレポートは、前期「経済思想」講義、特に六月二十四・二十七日「ヴェブレン 有閑階級の理論」「J・ボードリヤール 消費社会の神話と構造」を受けて疑問に思った点を論じ、また、それによって生まれる問題についても論じていく。

 現代の日本社会は有り余るほどの富・財産を保持しているとまでは言わなくとも、人並みの生活を送るに足りる金を誰もが持ち歩いている。ヴェブレン、J・ボードリヤール共に、社会にはピラミット形で示されるような階級が存在しているとし、また、その階級の優位性を説いている。表面上ではあるが、階級・階層・差別などといった言葉とは無縁に見える日本社会に、その理論は果たして通用するのであろうか?現在の日本社会の状況を把握しつつ、その真偽を確かめていこうと思う。

 

 

1 現代日本社会の実情

- a 「豊かさ」の代表国・日本 

 戦後の日本は誰もが知っているとおり、東洋の奇跡と呼ばれるほどの経済発展を遂げた。急成長の始まりは六〇年代からで、六〇〜九五年の間にはGNP(国内総生産)にして約六〜七倍の伸び率である。日本人の階級や階層への意識が急速に薄れていったのもこの一九六〇年辺りからである。基本的な衣食住、一定の教育、そしてそれを維持するだけの安定した収入といった最低限の保証が整い、貧困は日本社会から消えたのだ。正確な数値で示すと、自分の生活程度を「中」と答えた人は五八年には七二・四%だったが、七三年には九〇%を超え、八〇年代に若干低下したが九三年にはまた九〇%代に戻っている。[1] また、平成11年のデータだが、「自分の仕事や職業生活での強い不安や悩み、ストレスがある」とする割合は全体の63%、その原因を順に上げていくと「職場の人間関係の問題」「仕事の質」「仕事量」「仕事への適正の問題」となっている。所得の面での不満が挙げられないのは日本社会が豊かな証拠と言えるだろう。[2] 実際に自分の生活を考えてみても、洗濯機、冷蔵庫、カラーテレビなどといった電化製品は生活必需品であるし、携帯電話やパソコンにコミュニケーションの大部分を頼っている。(消費者金融で金を借りて生活費に当てているような自己破産寸前の知人でさえ、携帯電話を使い、車を乗り回しているのを見た時には大変奇妙に思った。)ホームレスのように一見すると「貧困」を絵に描いたような人々も存在はするが、マスコミで取り上げられているその暮らし振りは貧困とは言い難い。「自分は貧困だ。明日生きているかさえわからない。」そういう人間は日本には存在しないといっても過言ではない。

 

1- b 心の豊かさを求める日本人

また、前節に同じ統計の中から「今後の生活の仕方」について、「心の豊かさやゆとりのある生活」と「物質的な面で生活を豊かにする」の二つのうちどちらを選ぶかという項目によると、七六年に「心」派が「物」派を上回り、八〇年代に徐々にその格差を拡大、九三年には「心」派が五七・二%、「物」派が二七・三%という大差になっている。[3] 若年層に関しては依然として地位上昇と高収入を重視する人の割合が増えているのも事実ではあるが、全体として結果を見れば、社会の生活水準が物への執着心をそぎ、心的豊かさへの欲求にシフトさせていることは明らかであり、興味深い結果といえる。さらに言えることは、心の豊かさは普段の暮らし振りに直接通じているということだ。つまり、職業や名声だけでなく、例えば「どういった服を着ているか」「どういった食生活であるか」「どういった趣味を持っているのか」などということが個人の社会的位置付けに大きく影響するということであり、「心」派へのシフトはその割合が高まっているということを意味している。社会構造の関係を見る上で、趣味は階級の「マーカー」であるという視点はヴェブレン、マックス・ウェーバー、ブルデューなども指摘するところである。[4] とはいえ、(自分たちが本当に中流であるかどうかは別として)統計通りほぼ全ての人々が同じ程度の文化的地位を占めるというのは本当に可能なのだろうか。ピエール・ブルデューは著書の中でこう語っている。「社会が等質化しているとか大衆化しているとか言われている国においても差異はいたるところにあるのだということ」[5] また、ブルデューの書評とも言える「差異への欲望」の中で石井洋二郎は、「歴然たる地位・財力・名声などの持ち主であれば、わざわざその事実を主張するまでもなく他者との差異はおのずと顕在化するだろう。」と言っている。[6] 社会が等質化・大衆化している国というのはまさしく日本について言えることであり、職業的地位や名声を手に入れている人は多数存在する。つまりは、すべての人々が同等であるというのはあり得ないということになる。それでは、「心」に差異をもたらすような行動・行為とはどういったものなのだろうか。

 

1- c ハイカルチャーの認識と差異への欲求

ここに興味深い統計がある。一九九五年SSM調査威信票により評価された文化威信スコアで、それによると“クラシック音楽会・コンサートへ行く”“オペラを観に行く”“美術館・博物館へ行く”といった行為を「ハイカルチャー」とし、“映画を観に行く”“読書をする”“パチンコをする”といった行為とはっきりとした区別をつけ、より文化的であるとしている。[7] クラシックヤオペラなどが高尚な文化として認識されているということは、つまり、それをたしなむ人・そうでない人の間に確実に差異が生じているのである。差異が生じていたとしても、「ハイカルチャー」層が一割にも満たなければ残り九割近くの人々が同じ文化程度だということに偽りは無いのであるが、面白いことに、ハイカルチャーの消費に近づこうと何らかの手を尽くす人々が現れる(例えば、クラシックの音楽をCDで聴いたり、映画をたくさん見たり)。もしくは、ハイカルチャーをこなすに十分な財力を保持する金持ちがいたとして、彼らは決して自分の好みでないにもかかわらずハイカルチャーを消費し、上流階級であることを装い、見せびらかしの消費を繰り返す。そうすることで社会的地位の向上・維持を図っているのである。

 

1 - d「隠れ階層」の存在する社会

「現代の日本に階級・階層があるか」と聞かれれば、大部分の人々が「いいえ」と答えるだろう。しかし、「何らかの方法で自分をよく見せようとしているか」「顕示的消費欲を何かで満たしているか」と聞かれれば、「はい」と答えざるを得ないはずだ。ここにボードリヤールのいう「差異への欲求」が現代の日本社会にも証明されている。そもそも、高度経済成長によって世界で一位二位を争う金持ちの国になったとはいえ、その生活水準は均一化されたのではなく、底上げされたに過ぎないのではないだろうか。自分たちの生活においてそう気づくことはないが、所得の格差は少なからず存在し、それによって取り入れる文化の程度にも違いが現れているといえる。事実、最終学歴が高等教育(大学)まで達している家庭ほど所得が大きいという統計がある上に、より文化的であるか否かという事に関しても実は、その職業や学歴に大きく左右されているのである。クラシック音楽や絵画と言った正統的な文化になればなるほどその影響は色濃くなり、「好きな画家や音楽作品は何かという質問に対する無回答率は教育水準と密接に関わりあっている。」とブルデューも指摘している。[8]

 

これまで論じてきたことを見ると、一見して階級・階層とは無縁の日本社会にも階級・階層を創造しうる差異が存在しているのは明らかだ。ヴェブレンが唱えた有閑階級そのものが存在するかはこれまでの議論では証明できないが、文化消費について量・質両方の観点から見たときに、ピラミッド型の人間図が描けることは事実である。となると、ヴェブレンの言う「emulationの原理」は働いているのだろうか。また、ボードリヤールが言う「差異への欲求」はどのように存在するのだろうか。次の章では、クラシック音楽などの伝統的文化ではなく現代の日本社会に実際に起こっている事柄を検証しながら、そのことについて論じていこうと思う。

 

 

2 実例@「スローフード・スローライフ」

 ここ一、二年で急速に認識を深めた言葉の一つに「スローフード・スローライフ」がある。報道、ワイドショー問わずテレビ番組で何度も特集され、女性誌を中心に雑誌にも取り上げられるなど、圧倒的支持を獲得している。「スロー」という言葉はごく日常的に耳にするようになった。「スローフード・スローライフ」の考えが台頭する前の日本は、空前の「癒し」ブームであった。大人も泣けるといううたい文句の絵本や、心が安らぐというヒーリングミュージック、さらには癒し系女優など、例を挙げればきりがない。「スローフード・スローライフ」もこの流れに乗って支持を得たといって間違いないだろう。

 そもそも「スローフード」の始まりは一五年ほど前で、イタリアのローマにマクドナルド1号店が誕生しマスコミがこぞって取り上げていた頃にさかのぼる。「ファーストフード」に対して生まれた言葉が「スローフード」であった。一九八六年には北イタリアに本部を持つNPO団体「スローフード協会」が発足、現在までに世界三八カ国、一三二都市に合わせて約六万人の会員を抱える一大組織となった。その活動内容は「スローフード運動」と題し、「消えつつある郷土料理や質の高い食品をまもる」「質の高い食材を提供する小生産者を守る」「子供を含めた消費者全体の味の教育」といった主に三つである。この活動内容からもわかるように、「スローフード」の「スロー」はただ単にだらだらと時間をかけて食事するという意味ではなく、普段は漠然と口に運んでいる食べ物について一度じっくりと見つめ直すという意味が込められている。素材やそれから作られた料理について考え、食事を共にする家族や友人との会話の楽しむというところまでを含めて「スローフード」となるのだ。[9] そして、この「スローフード」のコンセプトに端を発する生活設計を「スローライフ」と呼び、おいしいものを食べ、気持ちよい環境でよく眠り、子供たちは健やかに成長していく、というような「スローライフ」を多くのマスコミ・メディアが提唱しているのだ。今年の春にはTBS系報道番組「ニュース23」で「スローライフ」が大々的に取り上げられたが、それに対しても大きな反響があり、放送後には八千件ものメールが届いたという。その中には「この不況の最中で今がんばらなくてどうする」というような批判的意見もあったそうだが、現在の世情から考えれば、圧倒的多数人々は「スローフード・スローライフ」に肯定的と考えていいだろう。

 ではどのようにして「スローフード・スローライフ」は実際の生活に取り込まれているのだろうか、というよりもそれ以前に、「スローフード・スローライフ」は正しく認識されているのか、私たちの生活にどれだけ浸透しているのかということを考えなくてはならない。試しに「スローフード」の意味を周囲の知人に聞いてみると「素材からよいものを使った手の込んだ料理を味わって食べること」という答えが返ってきた。近からずとも遠からずで、本来そこにあるべき意味までは理解していないように感じた。さらに話を聞いていて気づいたことには、本格的「スローフード」を実践するとなると相当の費用がかかるのである。私は経済思想講義の中でヘンリー・ソローの話を聞いたとき「これこそまさにスローライフじゃないか!」と思ったが、本来の意味はともかくとして世間のイメージは彼のような生活ではなく、より高尚な、場合によってはよりオシャレなものとして捉えられているのだ。「スローライフ」をテーマに掲げたインターネットのホームページをみてみると、「ナチュラル」「オーガニック」「エコ」といった単語がちりばめられ、化粧品や食品、衣類やリネンに至るまでさまざまなものが紹介されていて、端的に言ってしまえば自分の生活のすべてを「スローフード・スローライフ」に移行することは出来ないが、一部だけ取り入れることは出来るだろうという印象を受けた。さらに言うと、決して本来の意味は理解していなくとも、その様を模倣することで「スローフード・スローライフ」を実践したと感じているようである。恐らくはそれによって普段の自分とは異なったワンランク上の文化に触れたと感じるのであろう。そして(意味を理解しているか否かは別として)上層階級に近い人々ほどその模倣はより忠実なものになっていく。文化のリーダーは常に上層階級であると同時に、下層階級のものがそれを模倣しようと試みる限りその地位は揺るぎ無いものだという論点は現代日本社会にも通じるものであった。

 

 

3 実例A スーパーブランドが支持される理由、モードの変遷についていけない日本

3−a

 長引く不況の中で異常なほどの好業績をあげているのがファッション業界、なかでも「スーパーブランド」と呼ばれる高級ブランドだ。近年はデフレ不況だといわれているが、前節の「スローフード・スローライフ」にも見たように、節約生活をしつつも、よいものには投資を惜しまないという風潮が現在の日本にはある。「スーパーブランド」を具体的に挙げると、「ルイ・ヴィトン」「エルメス」「シャネル」「グッチ」「カルティエ」「ブルガリ」などなど、オートクチュールブランドを筆頭に最高級のアクセサリーブランドまで、そうそうたる面々で、その中でも日本において絶大な人気を誇るのは「ルイ・ヴィトン」である。「ルイ・ヴィトン」の二〇〇〇年の日本市場における売り上げは一千三億円、全世界の売り上げ総計の約三分の一にも上る。さらに好調なのは「ルイ・ヴィトン」だけではなく、その他の「スーパーブランド」も本店並み、もしくは世界最大級の大型店舗を次々とオープンさせ好業績を残している。「スーパーブランド」にとって日本ほど魅力的なマーケットはないだろう。ここ数年では「シャネル」の“コラス改革”も記憶に新しい。九九,九八年と売り上げが落ち込んでいた「シャネル」の日本法人代表、リシャール・コラス氏が打ち出したのは、それまで断り続けてきた女性誌などへの商品提供やファッションショーの一般公開に踏み切るなどといった、敷居を低くして客層を広げよという高級ブランドの常識を覆す開放作戦であった。この結果、二〇〇一年売り上げは前年度比二〇%の伸びを記録したのである。そしてこの「スーパーブランド」の快進撃は未だ衰える気配を見せない。[10]

 ここまでの売り上げを記録するのであるから、当然のことながら「スーパーブランド」の大衆化が急速に進んでいく。特に「ルイ・ヴィトン」と所持率は相当高いように思う。バッグや財布などの小物類に人気が集まり、洋服は低価格のものでもバッグはヴィトンというような光景はしばしば見られる。女子高校生であっても「ルイ・ヴィトン」のバックや財布を持ち歩いているのは珍しくない。こういった現象はビジネス的に見ればプラスともいえるが、ブランドのイメージ、価値の点から考えると非常に嘆かわしい事実でもある。「ルイ・ヴィトン」のファンだといいながら、デザイナーであるマーク・ジェイコブスの名前さえ知らない、「エルメス」の小物が好きといいつつマルタン・マルジェラの名前も知らない(マルジェらの契約切れに伴い、来年3月の秋冬コレクションからはジャン・ポール・ゴルティェが女性用プレタポルテのデザイナーとなることが決定している)。こういったことが往々にして起こっているのである。当然のことながら、海外では「ルイ・ヴィトン」のバッグは日本人の制服なのかという皮肉も出ており、全くそぐわない服装の日本人観光客が海外の本店を荒らすように買い物をすることから疎まれているのも事実である。しかし、日本人にとってみれば「ルイ・ヴィトン」のバッグ・財布はファッションアイコンと化しており、それを持っていれば安心、それを持っていればワンランク上という意識が確実に生まれているのだ。女性誌などでは“一点豪華主義”などといわれているが、それを持つことで大衆は文化的に卓越しているという幻想を抱く。つまり、自分に見合った品物を手に入れたいのではなく、一種のステータスを欲しているのである。これは、ピラミッド型の人間図で表される下・中層階級における誇示競争そのものであり、顕示的消費による差異への欲求の解消行為といえるのではないだろうか。

 

3−b 「モード」の変遷、今の日本

 ファッションを語るのならば「モード」について触れないわけにはいかない。現在では「モード」=「最先端」「最新」「常に新しさを追う」などの意味を含んで使われているが、「モード」の意味を正確に定義するのは非常に難しい、というのも「モード」は時代とともにその意味を変えてきた言葉なのだ。大きな流れで言うと、もともとは「あり方」としての意味であったが、のちに「模倣」「階級性」といった意味合いに変わり、その後十八世紀後半ごろに「新しさ」と結びつき、現在へと至っている。辞書などで「モード(mode)」の意味を調べてみると、ファッションだけではなくいろいろな分野で「モード」という言葉が使われているのがわかるだろう。その中でも重要な意味を持つものと言えば、ファッションにおける「モード(流行)」、そして哲学における「モード(あり方)」、この二つである。

 ごく最近に至るまで、ファッションと哲学は「軟派 硬派」として対立していた。ファッションなどという外面性に気を取られている人間の内面性は空虚なものに過ぎないと考え、また逆に、内面性の問題に没頭しようとするものは、外面性などかまわないものだと言われ続けてきた。哲学者カントは、「モード」は他の優れた人を模倣しようとする法則であり、いかなる内的価値も伴わない、と述べている。まさに硬派の意見を代表するような考え方だが、カントの生きた時代は十八世紀後半、まさに先に述べた「モード」の意味における変化の時代だ。続けて「模倣の働きが固定化されればそれは習慣となってしまう、つまり新しさ「モード」を好ましいものとする」と述べ、「モード」に「新しさ」の意味が含まれていることを示している。[11]

 内面の充実は誰でも求めるものであり、「ファッション 哲学」の対立は成立しなくなっているのではないだろうか。特に物質的に満たされている状態においては、誰もが内面の充実を図る。現代において「外面性 内面性」「現れ 本質」という構図はリアリティを失いかけている。「内」という発想をとる限り、必然的に「外」は存在するのだから、この二つを切り離すなど、できるはずもない。今や内面とともに外面を磨くことは当然のことのだ。[12]

「ルイ・ヴィトン」や「シャネル」といった日本人に絶大な支持を誇るスーパーブランド達は、まさにモードそのものを率いている存在といえるのだが、それでは日本人が「モード」に準じているといえるだろうか。答えは当然のことながらNOである。3- aでも述べたように、多くの日本人はそのブランド達の真意を汲み取ってはいない。言うなれば、うわべのみの対面を飾る「ファッション 哲学」の対立としてのファッションが、今の日本の現状なのである。一昔前に成立していたモード、一昔前に成立していたファッション、つまりは時代遅れといっていい。現実としてのスタイルを目の当たりにすれば、一昔前のファッションにも満たないと、個人的には思うのだがどうだろうか。

 「ファッション 哲学」の対立が崩れた今、新たな「モード」の概念はどこへ向かっているのだろうか。唯一絶対のこれまでの「モード」に変わって、「多様性・多元性の容認」の「モード」として展開するのではないか、という意見があるが [13]、私はそうは思わない。私は「あり方」としての「モード」に回帰するのではないかとかんがえている。確かに「多様性・多元性」はキーワードとなるであろう。しかしその「多様性・多元性」野中で明確な強いヴィジョンをもって「あり方」を提案していく、そんなブランド達を、私は期待している。

 

おわりに

 これまで、『ヴェブレン、ボードリヤールの指摘した階級・階層性や、その上層の優位性について、現代の日本社会においても同じことが言えるのか』ということを証明すべく論議を進めてきた。正直なことをいえば、経済思想の講義を聴いていたときは「日本には階級が存在しないのだからこういう理論は現代には成り立たないだろう」と考えていた。しかし、具体的なデータや社会現象を目の前にして論じることでわかったのは、社会問題になるような差別が起きていないために表面化しないだけであって、文化的卓越性の観点から見た階級・階層は確実に存在し、中・下層の人々はワンランク上を目指すべく試行錯誤をしていた、ということだ。日本人は無意識のうちに顕示的消費を繰り返し、常に誇示競争の中に身をおいているのである。

このレポートを仕上げるにあたって、自分の消費行動について思うことがしばしばあった。生産システムに支配されることのない自由な選択は相当に難しいことだとは分かったが、それを踏まえたうえでも真のアイデンティティを確立するような消費をして生きたいと思った。これから、差異への欲求に操られない消費行動はどういったときに起こりえるのかを考えてみたい。そうすることの中に、本来の「モード」に近づくヒントがあると思う。また、ヴェブレンのいう有閑階級の存在についてまで論じることができなかったのが非常に残念だったので、これについてもおいおい考えていきたいと思う。

 

 

参考文献・HP

@     ヴェブレン『有閑階級の理論』高哲男訳、1889 ちくま文庫

A     J・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司、塚原史訳1970 紀伊国屋書店

B     R・メイソン『顕示的消費の経済学』鈴木信雄、高哲男、橋本努訳2000 名古屋大学出版会

C     G・マクラッケン『文化と消費とシンボルと』小池和子訳1990 勁草書房

D     P・ブルデュー『ディスタンクシオンT・U』石井洋二郎訳1990 藤原書店

E     P・ブルデュー『超領域の人間学』加藤晴久訳1993 藤原書店

F     スティーブン・エジェル『階級とは何か』橋本健二訳2002 青木書店

G     スチュアート、エリザベス・イーウェン『欲望と消費 トレンドはいかに形づくられるか』(小沢瑞穂訳)1988 晶文社

H ハバーマス『公共性の構造転換』細谷貞雄訳 1973 未來社

I 石井洋二郎『差異と欲望』1993 藤原書店

J 今田高俊編『日本階層のシステム1 近代化と社会階層』2000 東京大学出版会

K 今田高俊編『日本階層のシステム5 社会階層のポストモダン』2000 東京大学出版会

L 宮島喬『文化的再生産の社会学』1994 藤原書店

M 宮島喬『文化と不平等』1999 

N 原純輔・盛山和夫『社会階層 豊かさの中の不平等』1999 東京大学出版会

 O 宮島喬・藤田英典『文化と社会』1993 放送大学教育振興会

 P 鹿野政直・正村公宏ほか『日本通史 第12巻 現代21995 岩波書店

Q AERAMOOK『ファッション学の見方』1996 朝日新聞社

R カント『人間学』岩波書店

 

HP➜

(1)      ニッポン東京スローフード協会 http://www.nt-slofood.org/

(2)      週刊ファッション情報 http://www.fashion-j.com

 



[1] 「国民生活に関する世論調査」総理府(「日本通史」より)

[2] 平成11年度国民生活白書

[3] 「国民生活に関する世論調査」総理府(「日本通史」)

[4] 「日本階層のシステム5 社会階層のポストモダン」

[5] 「超領域の人間学」P・ブルデュー(加藤晴久訳)1993 藤原書店

[6] 「差異と欲望 ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む」

[7] 「日本階層のシステム5 近代階層のポストモダン」

[8] 「ディスタンクシオンT」P・ブルデュー(石井洋二郎訳)1990 藤原書店

[9] 日本スローフード協会 http://www.nt-slofood.org

[10] 週刊ファッション情報 http://www.fashion-j.com

 

[11] 「人間学」カント (「カント全集」岩波書店)

[12] 「ファッション学のすすめ」AERAMOOK 1996 朝日新聞社

[13] 「ファッション学のすすめ」AERAMOOK 1996 朝日新聞社